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  • 執筆者の写真優子 姜

神農炎帝




今から5千年ほど前


湖北省隋州に神農炎帝という伝説の皇帝がいました


農機具を発明して


それまで狩猟が主だった人びとに


農業をひろめたため


神農(しんのう)と呼ばれ




また、松明も発明し


人びとが暮らしに火をとりいれるようになったため


炎帝(えんてい)とも呼ばれるようになりました




当時の人びとは、病気になっても


治す方法をしらなかったので


神農炎帝は山に入り、草木を採っては


自分の体で実験して


薬になるものと有害なものを見分けて


人々に伝えました




それらの知識が伝承され、


後漢から三国時代の頃にまとめられた書物は


中国最古の薬物書と言われる『神農本草経』といい


漢方などに発展していくことになります




お茶好きの人びとのあいだでも


神農はよく知られています


人の体に合わない草を体内に取り入れ


毒が回ったときには


お茶の解毒作用に頼っていたのだそうです


結局、最後はお茶を飲むのが間に合わず、


命を落としました




ちなみに


神農炎帝は姜という部族の首領でもありました




話はかわり


1940年頃、朝鮮が日本の植民地であったころ、創氏改名という、


朝鮮姓を日本の氏に改めるという制度があったのですが


父方の祖父は


姜(かん)という本来の朝鮮姓から


神農(かんのう)を


日本風の苗字として選んでかえました


改名制度があってもなくても、


名前で朝鮮籍とわかると


今とは比べ物にならないなくらい


仕事につけなかった時代です


のちに神農の姓が


日本ではめずらしいことがわかり


やっぱり目立ってしまうので


周りにたくさんいた、目立たないであろう


特に縁のない姓を選んで


さらに名前をかえることになりました


とくに父の半生は幼い頃から壮絶で


そうしなければ生きていくのが難しかったのです




幼い頃に神農の名前の話をきいたとき、


自分の名前に神の字をいれるなんて


随分と大それてるなあと思っていたのですが、


こうして辿ってみると


思いがあって選んだ日本名だったのだなあとおもいました


そして、わたしが幼い頃から野草に興味があり


野草を使ったお菓子をさらに深め


韓国菓子に行きついていることや


来年より九州の家の庭で農をはじめること、



祖父が北九州 小倉から日本にやってきて関東に渡り、


関東で生まれ育ったわたしが九州を終のすみかに選んだこと


子どもが来春から通う学校は再び小倉



自分で選択してきたようで


最初からすべてそうなるようになっていたような


なんだか偶然ではないようなきがしています


来年は大きな変化の年になりそうです




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